新海誠は本当に偉大な映画監督なのか

新海誠は本当に偉大な映画監督なのか

「すずめの戸締り」の感想とベストシナリオ

今話題の新海誠監督の最新作「すずめの戸締り」観てきました。六本木のiMAXで観たのですが、映像がとても綺麗なためこれは絶対に映画館で観た方がいいですね。特に地方の風景の描写シーンなんかは、私もよく知っている場所が描かれており、またその再現度が素晴らしかったのでそのあたりの作り込みはさすがと思わされました。

ただ、全体を振り返ってみても良い映画であることには間違いないと思うのですが、個人的には巷で騒がれているような賞賛に値する映画に仕上がっているのかと問われると疑問符が付きます。

理由はただ一つ。「シナリオ進行がナチュラルでなく、どこかつぎはぎのような印象を受けたから」だ。

何かにおわせる伏線を用意するだけしておいて、それをすべて回収しきらずに終わる。劇中にそれなりに納得できるヒントがあればまだ評価できるのだが、結局SNSなどを検索しても出てくるのは、陰陽思想などどう考えても深読みしすぎた独りよがりの考察のみ。個人的には新海監督は「そのあたりは視聴者に想像させるもの」と思わせておきながら、実はそのあたりのこだわりは何もなかったのではないかと感じている。劇中で特に腑に落ちなかった点は以下。

①なぜ閉じ師でもないすずめに扉が閉められたのか?

②結局各地の扉を開けたのはダイジンだったのか?

③義理の母に一瞬サダイジンが乗り移ったのは何だったのか?

④結局ダイジンの気まぐれで全て片付けられてしまっている点

これらについて順次確認していこう。

①なぜ閉じ師でもないすずめに後ろ戸が閉められたのか?

これについては一切説明がないので考察のしようがありません。

②結局各地の扉を開けたのはダイジンだったのか?

最後の後ろ戸の中で急にダイジンが協力的になり、ミミズと戦闘を始めたシーンは、唐突すぎて違和感しかなかった。その後劇中ですずめがダイジンに対し、「(扉の開いた後ろ戸へ)案内してくれてたんだね」と言った描写があったが、それまであれだけ気まぐれを発動していたダイジンに高尚な役割をあえて最後に持たせるのは違和感があるし、それだけをもって納得しろというのは無理があるのではないか。

仮にそうだとすると、「要石をすずめが外してしまったせいで全国の後ろ戸が不安定になり、開いてしまった各地の扉にあえてダイジンが案内してくれていた」というのが、勝手に後ろ戸が開いてしまったことに対する筋の通った理屈だと思うのだが、なんだかなあ。

少年をわざわざ椅子にして楽しんでいるあたり、本当に気まぐれだったようにしか思えない演出には違和感がある。もし本当にそういったオチにしたいのであれば、最後に納得できるような「責任感」に似たものを、あらかじめ少しだけでもダイジンの言動ににじませておいてほしかった。そうするだけで納得感は段違いだったように思う。

③義理の母に一瞬サダイジンが乗り移ったのは何だったのか?

サダイジンがこんな登場の仕方をしたのは、環さん(義理の母)とのわだかまりを解くことで「すずめを前に進ませるため」だと劇場で配られた新海誠本2で語られています。東日本大震災を機に家族に亀裂が入り過去を引きずっている人々に向けたメッセージと言われていますが、そのメッセージをこの形でいれる必要あったか?

これまでの話の流れを踏まえると、環さんに乗り移った時点で「ああ、もう一つの要石はこの人になるんだ」と思うのが自然な流れだと思うのですが、結局そうはならなかった。メッセージ性を重視し辻褄を犠牲にするこのスタイルは作中に何度も出て来たとおりですが、そのメッセージを伝えるにしても、他に自然な形で伝えることはできたのではないでしょうか。彼の構想力にどうしても疑問符がつかざるを得ません。

④結局ダイジンの気まぐれで全て片付けられてしまっている点

様々なメッセージや伏線が複雑に絡められた物語感を醸し出しておきながら、最後は結局すべてダイジンの気まぐれで片付けられてしまったのは非常に悲しかったというか、もっといろいろとできたんじゃあないでしょうかという感情が隠し切れません。

新海誠本1に記載があったのですが、最後の後ろ戸の中の燃え上がるシーン。ここはもともとキラキラした従来の後ろ戸のような演出だったのらしいですが、ここがなんか腑に落ちず最後になってえいやと燃え上がる演出にしたそうなのですが、そこから推測できる通り彼に全体を俯瞰するような構想力はなく、場当たり的な改修でつじつまを合わせるという部分最適アプローチで映画を作っています。だからどうしても全体最適にならないというか、全体で見てしっくりこないんだと思います。

SNS上で多くの自称識者たちが妄想に近い持論を繰り広げていますが、新海監督は彼らに最大限の感謝を伝えなければなりません。自身は大して何も考えていないのに皆が勝手に深読みして作品に深みを持たせてくれるから。逆に言えば、こういう境地にたどり着いてしまえば監督としては一種のアガりというか、成功と言えるでしょうけども。

彼のこだわりというか映画監督としての矜持は簡単で、

・現代の分かりやすい諸問題にあえて真正面から切り込む

・地方の美しい風景を美しい映像で描く

これだけです。勿論これ自体良い映画でありそのあたりの監督と一線を画した人物であるのには変わりないのですが、宮崎駿監督のようなレジェンドにはなり損なうというか、さすがにその器ではないと思っています。今一つ歴史認識や背景知識が浅いというか、表面的キラキラ感を重視する落合洋一タイプ感が否めません。

じゃあいったいどうすれば自然な物語の流れになったのか。外野から指摘してばかりいてはつまらないので私もざっと考えてみました。

「すずめの戸締り」ベストシナリオ

①物語の背景

実はすずめの母は昔閉じ師だった。だからその血を受け継いだすずめも後ろ戸を閉められる。

すずめが幼いころ、偶然見つけた後ろ戸の要石を外し中に入ってしまう。それがきっかけで大きな地震(東日本大震災)が起きてしまうのだが、すずめを探し扉の中に入った母は、すずめを救出した後に、これ以上の震災を防ぐため、自身が要石になり閉じ込められてしまう。また、母は要石になるタイミングで呪いをかけられ猫になり、人間としての記憶は失ってしまった。

つまり、ダイジンの正体はすずめの母。ダイジンがすずめに対し異常な好意を寄せるのにはそういう理由がある。

②椅子が第一の要石になるまで

高校生になったすずめが偶然にも要石を外しダイジンを開放してしまう。自由になったダイジンは、人間の頃の記憶はないがすずめに対する好意を覚えており、要石に戻りたくないので少年に呪いをかけ椅子にしてしまう。そして、全国の後ろ戸を開いて周ることにより少年に危機感を持たせ、自分の代わりに要石になるように迫るが結局これに成功する。そしてすずめは要石になった椅子を救うため、皆ですずめの故郷へ後ろ戸を探しに行くことに。

ここまでは、背景だけ違えば本編と同じ流れでそのままいけるだろう。違ってくるのはここからだ。

③第二の要石

故郷に戻る途中でサダイジンに乗り移られた義理の母環さん。このタイミングで環さんは要石になる呪いをかけられてしまう。

故郷の後ろ戸に入り、すずめ・少年に戻った椅子・記憶を取り戻した母さん(ダイジン)・呪いをかけられた義理の母・サダイジンが終結。記憶を取り戻した母と義理の母が、愛するすずめとその少年の幸せを願いもう一度要石になろうとするも、すずめが必至で抵抗する。感動のシーンを挟み最終的にはサダイジンとすずめの母(もしくは義理の母)が要石に戻り、日本に平和と日常が訪れ、すずめは複雑な感情を抱きながらも愛する少年とハッピーエンド。

このようなストーリーにすれば、物語の流れは自然だし、震災の暗示や、それに付随するメッセージも多く込められたのではないだろうか。物語の背景にもグッと深みが出てくる。

とはいえ、サザンオールスターズの「ツナミ」が放送できなくなるくらいには禁句と呼ばれた東日本大震災にこれだけ真正面から切り込む作品を作り、それでいて全く批判されていない新海監督は本当に凄いポジションを確立したように思う。そのガッツと、日本の風景描写の美しさは彼にしかできない芸当であり心の底から尊敬しているのですが、あともう少し、全体最適な構想力さえあればレジェンドになれる実力を秘めていると思います。

色々と書きましたが、個人的に彼の作品は大好きです。今作も普通に観てみると面白い作品なので、まだ観ていない方は是非観てみてください。その後にもう一度私の考察を読めば、私の言いたいことも少し分かると思います。「何言ってんだヌーログ」という意見でも構いません、皆さんの意見も聞かせてください。ではでは。

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